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学校

学校って何で行くんだろうな・・・

ふっと思った。

僕が学生だった頃を振り返る。

小学生低学年の頃、特に1,2年生の頃は内気すぎた。3年生の頃から、素の自分を出しても怖くないことに気付き、活発で図々しくなった。だけど、自分の本質は小学1,2年生の頃と変わらず、自分の内側に意識が向いている点は変わっていない。
今もそう。
中学1年の頃、再び内気な面が行動にやや強く出ていた。環境が変わったためと思う。中学1年生の中頃から再び活発になりだした。
高校生の頃、怠ける技を身につけた。
大学1年生の頃はまじめだったが、2年生の頃から怠けスキルは深化し、極まった。
小中高大、どの学生時代も、「だるいなぁ」と思いながら、とりあえず行って、とりあえずいい点とって事なきを得て過ごしていた。

今、学生生活をとりあえず終えたところから、学校というものを振り返ってみて、学校へ行く意味を見つめなおしてみたが、本当によくわからない。
何で学校に行くんだ。

英数国社理、各教科の勉強の重要性は理解している。
各教科の勉強は、いい物を選択し、劣悪なものを世から消し去るためにしておかなくてはいけない。
消費力を持っているのは大衆のため、皆が各教科を学ぶ必要がある。
だが、各教科を習うためだけに行くんだろうか。
そうだとすれば、その割に学校にはいらないものが多かった。

学校に行く意味って、集団に混ざってコミュニケーション力の強化とか、その程度なのかな。
コミュニケーションっていうのは確かに大事。
人と通じ合えたときは気持ちがいいし、人とどこかで繋がっていないと精神的に参ってしまう。
それに、話して騒いだ日のほうが、黙っていた日よりも面白い感じはよくある。
楽しく過ごすにはあると便利な能力だ。
だけど、後々まで伝わる素晴らしいものっていうのは、熟考して、練りに練って、一人で黙々と努力を注ぐことによって生まれるものだ。
この作業においては、協力してくれる一握りの人にだけ分かってもらえればいい、もしくは信頼してもらえれば良い訳で、大衆に理解してもらう必要は全くないわけだ。
はっきり言って、世の中のため役に立つ能力はコミュニケーション力とは正反対とも位置づけられるような、一人で黙々と作業し続ける集中力と持続力。
まぁ、とはいえ全くコミュニケーションできないのはさすがにダメだと思う。

んー、世の中の論調がどうも逆行しているように思うので、この点は協調して言っておこう。
コミュニケーション能力を過大視するな。
そんなものより、一人で生きれる力を身に付けろ。
それは、一人で黙々と努力することによって身に付く。
力を注ぐ対象を見つけるまではうろうろ彷徨えば良い。

さて、学校へ行くのは、集団の中に入って多方面から知識の吸収をするためか?
その割には教科の勉強に時間を割きすぎている気がする。
会社に入った際に、出勤時刻を守ることや提出物をきちんと出すことの練習で行くんだろうか?
じゃあ国が会社を支援し、会社が学校を作った方がよくないか。

学校に行っていなくても、社会で自立している人はよく聞く。
そんな人はいくらでもいると思う。
また、学校のない時代だってあったし、学校の足りない国だってある。
学校に行ったら何がどうよくなるんだろう。
結局僕は、はっきりとした答えがわかりません。
確実にいえることは、学校でなくてもいいから数国理社の勉強は絶対やっておけ!
ただ、政治、歴史の勉強は教科書を真実と思い込んだら痛い目見るぞ。

もし学生がこの記事を読んでも、学校へ行かない言い訳に使わないでくれ。
"大衆に合わせる"という能力。(≒協調性)
これ、人の群れで楽しく生きるにはあったほうが便利。
ただ、低俗に協調する必要はない。
その場合はむしろ低俗があなたに合わせて、質の高い協調を目指したほうがいい。
また、縛り付けるものがないとどうも怠けてしまう人は、”学校を利用する”という発想に切り換えて縛りの中に入ってみるのはどうだろう。
怠け癖があると群れの中で暮らすには厄介なので、心の中では馬鹿馬鹿しいと思っててもいいから、とりあえず学校の中で真面目を演じて来れば良い気もする。

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